曹洞宗 104歳の禅師 今月の『そよ風に乗って』の6月号掲載が大変遅くなってしまいました。お待ちになっていただいた皆様には申し訳ございませんでした。さて、こちら信州は、六月の末から連日の猛暑で梅雨がどこかへ消えてしまったような気が致します。暦の上からも、今日7月7日は、「小暑」暑い季節のはじまりの日にも当たりますから、これからが夏本番と言ったところでしょうか。また、今日仕事の合間に車中から見られた「タチアオイ」の花も既に一番上の花が咲き始めていましたから梅雨明けも後僅かだと知らせてくれているようです。皆様はお元気でお過ごしでしょうか? 先日、当寺のお檀家様のお宅でご法事があり、住職に代わってお経をあげて参りました。 無事に四十九日法要の読経も終わり、ご親族の皆さんとお食事となりました。お亡くなりになった方は90歳を超えるおばあちゃんでございました。とても人柄の良い皆に好かれていたおばあちゃんでしたので、食事中でのご親族との会話も和やかで様々なお話がなされました。 その中で、ご親族の中の若い女性がこんな質問してくれました。この女性は高校を卒業してから直ぐに語学留学の為、イギリスに渡り、現在は見識をより深める為に現代アートを学んでいるとのことでした。 その質問とはこうでした。「外国で沢山の友人と話をしていると、必ず宗教の話になり、自分はキリスト教のプロテスタントで教えにはこういうものがあるが、君は日本では何を信仰しているんだい?」と問われるそうで、彼女は決まってその答えに詰まり「よく解らない」と答えているとのことでした。こんな時どう答えてたらいいのかと言う質問でした。 私は、日本の神についての信仰のあり方や、日本に仏教が伝えられた歴史的経過、その後の私ども曹洞宗宗派の成り立ちや宗旨等について、知りうる範囲で説明致しました。しかし、若い世代の方々に解り易い言葉で、仏教的な考え方(私達の場合は道元禅師の考え方)、すばらしさを説明するのにはいつも苦労しておりました。 それから数日後、NHKスペシャルで『曹洞宗 104歳の禅師』と言うタイトルのテレビ番組が放映されました。曹洞宗はご存知のように福井に永平寺、横浜に総持寺を大本山として仰ぐ宗派でございます。その曹洞宗大本山の頂点に位置するのが、宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師です。お歳は104歳、永平寺をお開きになった道元禅師様から数えて78代目の住職であり、現在も現役で、大勢の若い修行僧と共に毎朝2時には起床し、だれよりも早く禅堂にむかい坐禅を組み、本堂で毎朝勤経を雲水(若い修行僧)達と共に勤めておられる。 禅師様は、幼くして両親と死別され、11歳で兵庫県にあります曹洞宗福田寺の小塩ァ童(こしおぎんどう)老師の元に引き取られます。若い遊びたいさかりの修行生活、老師はなぜ、修行し禅を組むのか解りませんでした。その結果、師匠の反対を押し切って大学に進学し、模索します。転機を迎えたのは29歳のとき、師匠小塩ァ童老師が亡くなったのです。 禅師様は、その老師のあたたかい亡骸を前に、「えらいひとやったなあ」と師のすばらしさを痛感いたします。その日を境に坐禅の意味を考えるのをやめ、ひたすら生前中の老師をまねをすることにつとめます。その時に感じた言葉が、「学ぶとはまねると言う言葉からきている。学ぶとはまねることだ。一日まねをすれば一日のまね、二日まねをすれば二日のまね、しかし一生まねすれば、ついには本物になる。」と言うものでした。私はこの言葉に出会い、解り易く素晴らしい言葉だなあと思いました。私自身のこころの中の雲も晴れわたる、そんな思いでした。 また、禅師様は、「人が生きるとき、いつ死んでもいいと思って生きるのは間違いだ。いついかなる時にも平気で生きていなければならない。」とおっしゃり、人が生きるうえでの真理までもお話しておりました。 この言葉は、以前私も、ある作家の本を読んでいる時に、文中に同じ内容のお話が載っていたのを憶えています。それは、ある新聞記者が働き詰めの毎日に疲れ、会社を辞め禅堂に修行しに行ったという内容でした。そのとき、坐禅を組みながら最初は「いつ死んでもいいと思って修行したが、2年、3年と修行をするうちにその考えが変わったと記されており、「いついかなる時も、どんなに苦しい時でも生きている、そういうことが禅修業なのだ」と考えるようになったそうです。この言葉は先の禅師様の語られた言葉の意味と同じく仏教徒とされる皆様が、仏教とは、禅とは問われた時に簡潔にお話できる一つではないかと思います。 また、最近見聞きした言葉でこういうものもありました。この言葉は、現在若者に非常に人気のあるロック歌手、布袋寅泰さんが、高いところから誤って落下、頭骸骨骨折という大怪我をおい、後少し傷が深かったら生きてはいられなかった状況になり、入院していた病院先で一人思ったことがあったそうです。それは、「ほんとに生きていて良かった。このまま無事に生きることが出来たら、二度目の人生を生まれ変わったつもりで生きよう。」と思い、ほんとにこの時に、「生命を見直そう」と正直に思っているんです。そうおっしゃっていました。この言葉も若い世代の皆さんに「仏教とはなに?」と問われた時、とても理解し易く、私は自分なりに説明する時にお話しています。最近特に若い世代の犯罪や、自殺、生きることそのものに生きがいを見出せないと語る若者が多いように感じられます。先に記させていただいた言葉、「平気で生きている」「生命を見直す」等の言葉で少しでも励まされ、自分のオリジナルの人生を歩むヒントになれば幸いであるなあと思います。 先程のHNKのテレビ番組中、禅師様が最後に「自分くらい大事なものはない。自分が大事ならば、みんなそれぞれがそうだ。自分が大事ならば周りの環境すべてが自分だから・・・環境も含めて自分なんだ」とおっしゃり、続けて「私にとっては永平寺が自分」「私が永平寺、そう思ってここに暮らしている」とお言葉をまとめられました。自分に置き換えると皆様にとっての自分とはなんですか?私にとっては「龍顔寺が自分であり、お釈迦さま、道元禅師様、周りで関わる全ての皆様が自分ということになるのでしょう。」そう思い、お誓いすることで、凡夫である自分が自分たるように少しでも自覚出来るのではないでしょうか。このことは、例えば、サラリーマンとして働く会社員にとっては、会社が自分として覚悟を決めれば、自ずと会社を守る自覚が目覚めることとなるでしょうし、家族を自分とすれば、家族に思う気持ちも強くなることでしょう。そう考えてくると、自分とは関係ないなどというものはこの世の中に何もなくなってくるのではないでしょうか? 当山副住職合掌 |
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