2006年 9月 有名な「一休禅師」の書
こんにちは、こちら信州では山の裾野が少しずつ赤や黄色に染まり始めました。信州の本格的な秋が直ぐそこまで来ています。いかがお過ごしですか?
さて、今回はアニメ漫画にも登場した「一休さん」、即ち「一休禅師」がお書きになった書から
『諸悪莫作 衆善奉行』
『自浄其意 是諸仏教』
この一休禅師の有名な書は、最初の『諸悪〜奉行』までの一文を見事なまでにスッキリと潔く書かれているものです。
私が最初に目にしたのは子供の頃でした。師匠(父親)の書棚から偶然取り出した本に、この書が載っていたのを記憶しています。最初に見たときから強烈な印象がありました。どのような意味なのだろう?子供の頃でしたから意味はそのうち忘れてしまいましたが、再びこの字に出会ったのは、私が大本山での修行を終え24歳、書道専門学校で学んでいた時、学校の図書館で再び目にすることになりました。子供の頃に見た記憶が鮮明に蘇ってきます。言い表せない迫力と厳しさを感じさせる書でした。意味も改めて読み返してみました。何度も・・・
そこにはこう訳されていました。
「悪いことはせず、良いことをしなさい」
確かに字の書きぶりにはそのような解釈が相応しい気持ちでおりました。しかし先日、昭和43年に発行されました水野弘元先生の「修証義講話」という本を読んでいると文中に、右の漢文だけを見ると、
『諸悪は作すことなかれ、衆善は奉行せよ、自らその意を浄うせよ、これ諸仏の教えなり』というように命令文にして読まれている。このように命令文で読んだり解釈したりしている人も日本の仏教界では少なくないが、パーリ語『発句経』の原文で見るならば、訳はこうなるのだそうです。
『一切の悪をなさないことは、善を具足することは、自心を浄化することは、この(三つ)は諸仏の教えである』となり、そこには命令形の意味は少しもないのである。つまりこの偈は他から命令され強制されて、悪をなさず、善をなし、自心を浄化することをいったものではなく、自ら進んで止悪行善と浄信をもつこと、それが自然に具備されているようになること、これが諸仏の教えであると説かれている仏教の本質であるとされる。そして、道元禅師も、諸悪莫作という語を命令文とするのではなく、
@初めは諸悪莫作と願いA次に諸悪莫作を行じBさらに諸悪が自然に作られなくなるようにすべきである
という立場を示し、つまりは
@諸悪のつくりにくいところに往来し、A諸悪のつくりにくい縁に接しB諸悪をつくらない環境に身をおくこと
とも言えます。
道元禅師は強制的なことを強為(ごうい)とし、反対に自発的なことを云為(うんい)として、自発的に自ら為すことの重要性を説いた。青少年犯罪の根源を考えてみても大いに参考になるところだと思われるのではないでしょうか?
最後にこのようなお話があります。ご紹介しましょう。
中国の有名な詩人、白居易は、禅に参じて、杭州の道林禅師を訪問し、仏法の大意を質問した。
道林は「諸悪莫作 衆善奉行」と答える。
居易は「そのような平凡なことは三歳の孩児でも答えることができる」。
道林は「三歳の孩児でも答えられるとしても、八十の老翁でもこれを行うことはできない」。
これを聞き居易は自分の考えの未熟であったことを知り、拝謝して去ったそうです。
人間の行為は結局自分で行うのですから、この言葉の意味をもう一度よく考慮したいところです。
当山副住職 合掌
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