2006年3月 道元『正法眼蔵』から学ぶ No1
 今回は、曹洞宗を御開きになった開祖道元禅師の『正法眼蔵』からのお話です。
 〜『正法眼蔵』発菩提心の巻より〜
 『菩提心(ぼだいしん)を発すというは、己れ(おのれ)未だ(いまだ)度らざる前に(わたらざるさきに) 一切衆生を度さんと(いっさいしゅじょうをわたさんと) 発願し営むなり』

訳:(さとりがさとりを喜ぶ心を起こすということは、自分が救われたいと思ったから、
          まだ救われる前に人々を救おうという願いを起こし手立てを尽くすのです。)


解説(あなただけの修証義:小学館)
 自分自身が仏教を学び、それが喜びになったら、その純真で現実の社会や人生に関わっていけます。その関わりとは、人であり、物であり、事であり、心です。人生とは人・物・事・心との関わりです。人間関係、金銭の関係、健康病気の関係、死ぬ恐怖、悩み、愛し、裏切る心の関係です。これらを真実の目で見極めるのが智慧です。その智慧から人の痛みが解り、人の愚かさを許す力が出てきます。それを慈悲といいます。
 自分が静寂で純真でいたら、人の事は損得抜きに鏡のように見ることが出来ます。その時、痛みを持つ人に何が必要か。迷っている人はどうしたら救われるか。自らが救われた体験と喜びを持っている人なら、相手に何が必要か澄明(ちょうめい)に見えてきます。
 すると、自分の面子(めんつ)や、都合や、損得の心が働き出す以前に人の事が見えるのです。それを「自味得度先度侘」(じみとくどせんどた)といいます。自分を忘れて人のことにこころを向けることです。

生活していると、学校や会社で、また家庭でも「私が、私が」と考えたり、行動に出したりしてしまいがちです。ここで伝えているのは、少しでも人生の中で人や物、言葉や態度、行動で自分自身が救われた経験を持つなら、それを自分以外の他人に向けて鏡のように見て、考えてあげ、自分の体験を通した思いやりの気持ちで接することを教えています。

                                                      当山 副住職合掌

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